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一日百善すら可能にする現代的善行の積み方 [空想・哲学・思想]

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昨日書いた記事「死後の世界観が与えた影響 / 宗教で不幸にならないために」の中で、有名な宗教の死後の世界観の中には共通するものがあることを説明した。

輪廻転生であろうと天国と地獄であろうと、死後の世界へ行くと、善行を多く積んだものがより良い場所へ行き、悪行を多く成したものはより悪い場所へ行くという考え方のことだ。

この考え方を信じる信じないは別としても、僕は生きているうちに善行は積んでおくべきだと思う。

死の間際になって、「良い人生だった。」と思うためは、余裕のある時でだけでもいいから善行を積んでおくほうがいい。

そうすれば、「何もできず、誰の役にも立てない人生だった。」と後悔しながら死ぬことは避けられるだろう。


善行を積むと聞くと難しそうに聞こえるが、本当は簡単なことなのだ。

道端のゴミを一つ拾ってゴミ箱に入れることも、忘れ物をした友人に物を貸してあげることも善行だ。


本当に小さいことでも、人の役に立つことであるなら、その行いは善行と呼べるだろう。



一日一善に対する考え方

一日一善という言葉がある。

1日に一つの善行をして、それを積み重ねるようにしなさいという意味だ。

僕としては特にこの言葉にこだわる必要はないと考えている。

この言葉に縛られて惰性で善行を積むよりは、やりたい時にやりたいだけ善行を積めばいいと考えているからだ。

他人の役に立つことも大切だが、そのせいで自分の精神的・肉体的健康に悪影響を及ぼしては本末転倒だ。

しかも、現代には簡単に大勢の人の役に立つ方法がある。

その方法を実践し続けるなら、一日に百善を積むことだって不可能ではない。



インターネットを使えば一日百善すら簡単に達成できる

現代にはインターネットという優れた文明の利器がある。

それを利用すれば、小さい労力で大勢の人の役に立つということが可能だ。


最初に小さいことでも善行は善行であるという話をした。

僕の個人的な意見であり、極端な例ではあるが、“カップ麺のおいしい食べ方”を知りたいと思っている人に、その情報を教えることも善行であると考えている。

ろくに料理のできない一人暮らしの若者にとっては、非常にありがたい情報であるし、役に立つ情報であると言えるからだ。

カップ麺のおいしい食べ方をツイッターなどのSNSもしくはブログなどで公表することで、一日一善どころか、場合によっては一日百善すら達成できる可能性は十分にある。


要するに、インターネットを使って人の役に立つ情報を発信することで、少ない労力でたくさんの善行を積むことができるというわけだ。



自分が発信した情報がどれだけの人の役に立ったかを知る方法

ブログであれば、コメントや訪問者数、拍手やnice!などの評価ボタンが押された数でわかる。

ツイッターであればリツイート数やお気に入り数、フェイスブックであればいいね!ボタンが押された回数などで知ることができる。

これらの数字は、あなたの発信した情報に価値があると判断されなければ伸びることはない。

だからこそ、どれだけの人の役に立ったかがよくわかる。



あなたにとって当たり前の情報でも、その情報を知らない人・知りたい人というのは意外といたりするものだ。

ちょっとした生活の知恵や、おいしい料理の作り方、お得な買い物の仕方、使ってみて良かった商品や行ってみて良かったお店のレビューでもなんでもいい。

とにかく善行を積みたいならば、誰かの役に立ちそうな情報は積極的に発信していこう。

情報の価値を決めるのは、その情報を受け取った人であって、発信する側ではないということを覚えていてほしい。

どんな些細な情報にも、誰かの役に立つ可能性は存在するのだ。




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死後の世界観が与えた影響 / 宗教で不幸にならないために [空想・哲学・思想]

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たいていの宗教には死後の世界という概念がある。

細かい違いは多いが、基本的な部分は変わらない。

生きている間により多くの善行を積んだものが、死んだ後により良い場所(高位の場所)にたどり着けるという考え方であり、悪行を重ねたものは、より悪い場所へ落とされて長い間苦しむことになるという考え方だ。

この考え方があるからこそ、今の文明社会があると言える。

そして、実に功罪の多い考え方でもある。



死後の世界観が人類に与えた影響

平和な時には、この死後の世界観はとても重要なものになる。

悪人を減らし、善人を増やすからだ。

人間は自分にとっての利害に敏感だ。

だからこそ、死に近づけば近づくほど(年を取れば取るほど)人は善行を積もうとする。


一転して、戦時にこの考え方を歪めて利用すると恐ろしいことになる。

人を殺すという行為が悪行ではなくなるからだ。

敵側の人間であるという理由で、罪のない人間を簡単に傷つけることができるようになってしまう。

最近で言えばISと呼ばれるテロ組織。

日本で言えばオウム真理教などが悪い例として挙げられる。


宗教の中の死後の世界観という概念の影響は非常に大きく、これから先も途絶えることなく続いていくだろう。

自分が無宗教だと思っている人間にさえも、宗教というものは意外と影響を及ぼしていたりするのだ。

それほどまでに宗教は、特に死後の世界観というものは人類と密接に結びついている。

だからこそ、誰がいつ宗教に目覚めてもおかしくはないのだ。

挫折、絶望、失望、不条理、恐怖、目標の喪失、親しい者の死。

心が弱り、生きる気力を失ってしまう可能性は常に存在している。

もしも何かしらの縁でどこかの宗教に入信した時、その中の悪影響を遠ざけ、可能な限り良い影響を受け続けるにはどうすればいいだろうか。



宗教で不幸にならないために

宗教は心の薬だ。

人生の苦境に立たされた人や心の弱い人には特効薬とすらなる強力な薬。

しかし、それは過剰に摂取しすぎれば毒になる。


要するに一つの宗教にのめり込みすぎないように注意すればいい。

今の時代インターネットで調べれば、簡単に様々な宗教の教えに触れることができる。

色々と見比べて、自分に合う教えだけを選び取っていけばいい。


それと、特に気をつけなければいけないのが、宗教へのお布施(宗教関係のお金の使い道)だ。

「とある新興宗教にのめり込んでしまい、その結果家族から見放され、友人からは距離を置かれ、気づいたときには役に立つかもわからないガラクタに囲まれて無一文になっていた。」なんていう話はもはや珍しい話ではない。

宗教にのめり込みすぎて身を滅ぼす人のほとんどは、金銭を支払いすぎたことが原因だ。

当たり前のことだが、高額すぎるものや効果が不確かなものは買わないこと。

そんなものよりも、睡眠の質が良くなる布団や腰痛になりにくい椅子を買ったり、家族と美味しいものを食べに行くなど、確実に自分や周囲の人の利益になることにお金を使うべきだ。




何を信仰するのも自由だが、困難に出会うたびに神や仏が毎回都合よく助けてくれるとは思えない。

基本的に期待せず、あれば儲けものくらいに考えておくべきだ。

人生の苦境に陥ったとき、最後に自分を救うことができるのは、やはり自分だと僕は思う。




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創造的(クリエイティブ)な趣味は人生を豊かにする [空想・哲学・思想]

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以前書いた「うつ状態の人がどうして死にたいと思うのか自分なりに分析してみた」という記事の中で、人間には三大欲求の他にも様々な欲求があり、内的な充足感を求める欲求のことが“高次の欲求”と呼ばれていることを説明したのを覚えているだろうか。

他者から尊敬される(認められる)ことを望む「尊厳欲求(承認欲求)」と自分の能力を引き出して創造的な活動をすることを望む「自己実現欲求」のことだ。

この2種類の欲求を同時に満たすためには、創造的な趣味を持つのが一番だ。



創造的な趣味が人生を豊かにする理由

僕は創造的な趣味とインターネットを組み合わせることで、人間の持つ高次の欲求は満たすことができると考えている。

曲を作る、詩を書く、小説を書く、料理をする、編み物をする、裁縫をする、動画作品を作る、写真を撮る・・・etc。

創造的なことであればどんなことでも構わないが、自分の力で何かしらの作品を生み出すというのが重要だ。

そうすることで、自分の能力を引き出して創造的な活動をしたいという「自己実現欲求」が満たせる。

次に自分が作り出した作品をインターネットを使って発表する。

そうして発表した自分の作品が、誰かから評価してもらうことができたならば、他者から認められたいという「尊厳欲求(承認欲求)」も満たせるというわけだ。



創造的な趣味はうつ状態からの復帰を早め、うつ状態を予防する

僕がブログを持つのはこのブログで3つ目だ。

僕自身、今こうして自分の考えをインターネット上で公開し、誰かから評価してもらうことで精神的な充足感を得られているが、ブログを始める前は精神的に非常に不安定だった。

ブログを本格的に始めたのは去年の6月。

その頃には自分を救えるのは自分だけという信念を既に持っていたとはいえ、気分の浮き沈みが激しく、やる気がある日とない日の差があまりにも大きかった。

活動的な日は朝から晩まで何かしらの行動を起こしていた。

ブログの記事の内容を考えたり、ギターを弾いたり、筋トレをしたり、小説を読んだりしていた。

やる気のない日は半日以上寝て、ご飯もろくに食べずに動画を眺めていたりした。

僕がうつ状態を完全に抜け出し、精神的な健康を手に入れられたのは、ブログで誰かの役に立つような記事を書くようになってからなのだ。


創造的な趣味を持ち、発表する場を持つことで、僕たちは高次の欲求を満たすことができる。

うつ状態を早めに抜け出して、予防することもできる。

そして、与える側の苦労と喜びを知ることで、人生をより豊かなものにできるのだ。



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自分で自分を救うという考え方は、実は仏教の思想に近い [空想・哲学・思想]

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今までの記事で、僕は自分を救えるのは自分しかいないと言ってきた。

そして、その考え方は実は仏教の思想に近い考え方である。



日本人と仏教の関係性

世界三大宗教の一つであり、キリスト教やイスラム教徒比べると僕ら日本人にとっても馴染みが深い宗教であると言える。

文化庁の調べでは2013年12月31日の日本の仏教系の信者の人数は8690万2013人となっている。

これは国民の3分の2以上が仏教の信者であるということであるが、勿論絶対的に正しい数字ではない。

2006年の電通の調査によると52%、2007~2008年のギャラップの調査によれば73%もの日本人が自分は無宗教であると回答している。(ウィキペディアの“無宗教”の記事参照)

では、文化庁の調査結果は全くのでたらめなのかと言えばそうではない。

上の数字が仏教的な行事に参加している日本人の割合で考えるならば、何もおかしなことはないからだ。

例えば法事・お盆・お彼岸・除夜の鐘など、意外と日本人というのは仏教的な行事に参加しているのだ。

外国の人や他の宗教を信じている人間から見れば、神仏を信じる信じないに関わらず、仏教的な行事に参加している人は仏教徒に見えるだろう。

広義的な視点から見れば、仏教的な行事に参加している時点で仏教徒であると言えなくもない。




仏教とはどんな宗教か

現代日本において仏教の本質を知る者は意外と少ない。

街中で仏教とはどんな宗教かを訪ねても、半数以上の人はまともに答えることはできないだろう。

仏教がどんな宗教なのかを知るには、仏教の開祖であるブッダの言葉を借りるのが早いだろう。


「ものごとは心に導かれ、心に仕え、心によって作り出される。もし人が汚れた心で話し、行動するなら、その人には苦しみが付き従う。あたかも車輪が、それを牽く牛の足に付き従うように。」

「ものごとは心に導かれ、心に仕え、心によって作り出される。もし人が清らかな心で話し、行動するなら、その人には楽が付き従う。あたかも身体から離れることのない影のように。」

「学ぶことの少ない者は、牛のように老いていく。肉ばかり増えて、智慧(ちえ)は増えない。」

「自分の救済者は自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御してはじめて、人は得難い救済者を手に入れるのだ。」

「愚かな人は、[私には息子がいる][私には財産がある]などといってそれで思い悩むが、自分自身がそもそも自分のものではない。ましてやどうして、息子が自分のものであろうか。財産が自分のものであったりしようか。」

※引用元は下部に記載


簡単にまとめると、「ものや人への執着などの煩悩を捨てて、自己鍛錬を積み重ねて自分を救い、余裕があれば周りの人を助ける。」といった感じだろう。

この自分で自分を救うという考えこそが、仏教と他の宗教との最大の違いであると言える。




僕個人の宗教への見解

ここまで仏教を紹介しておいてなんだが、僕は別に仏教徒ではない。

あくまで僕自身の自分を救うのは自分しかいないという考え方に近いものとして紹介しただけだ。


僕はどんな宗教にも必ず欠点があると考えている。

所詮は人が生み出したものだからだ。

それに時代が変われば、人を取り巻く様々な状況も変わっていく。

有名な歴史ある宗教も、これからの時代に合っているとは限らないのだ。


だからこそ、様々な情報が溢れかえる中で、僕たちは自分の人生観や死生観を構築して、自分の生き方を模索していかなければならない。

それは言うなれば、自分だけの宗教を創り出すに等しい行為だ。

情報という大海原の中に手製の船で漕ぎ出すようなものだ。

しかし、難しく考える必要はない。

今まで何度も意識的・無意識的にしてきた情報の取捨選択を繰り返すだけでいい。

あなたの心が正しいと思うものを信じ、行動するだけでいい。

分からないことに無理に答えを出す必要もない。


一つの宗教に縛られる時代はとっくに終わりを告げている。

いくつもの宗教の中から、あなたが正しいと思うものだけを切り取っていけばいい。

あなたはあなたが正しいと思うことを、伝えたい人に伝えていけばいい。

僕たちは幸運だ。

思想の自由と表現の自由が存在する場所に、時代に生まれてくることができたのだから。




※ブッダの言葉引用元


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うつ状態の人がどうして死にたいと思うのか自分なりに分析してみた [空想・哲学・思想]

どうして人はうつ状態になるだろうか。

そして、死にたいと思うのだろうか。

それはその人が求めるものが手に入らないと思い込み、人生に絶望したからではないだろうか。

少なくとも僕のうつ状態が深刻化したときは、僕は人生に希望を見いだせなかったし、自分が人生において求めているものは絶対に手に入ることはないんだと思い込んでいた。

しかし、僕が人生において求めている「好きな時に仕事をして、好きな時に趣味に没頭できる生活」を手に入れる術(すべ)があると知ったとき、僕の人生に一筋の光が差し、僕のうつ状態はゆっくりと治っていった。

うつ状態の正体とは、人間の持つより高次の欲求が満たされることはないと絶望し、そう思い込んでしまった状態のことなのではないだろうか。



人間の持つより高次の欲求とは何か

人間の持つ高次の欲求について知るためには、まず欲求の5段階説(欲求のピラミッド)について説明しなければならない。

欲求の5段階説(欲求のピラミッド)とは、アメリカの心理学者であるアブハム・マズローが提唱したものである。

この5段階説の中では、低次の欲求が満たされると、人はより上の段階の欲求を満たしたくなるというものだと言われている。

図にするとこのような感じになる。
マズローの5段階欲求.png


まず欲求のピラミッドの最下層には「生理的欲求」が存在する。

これは人間が生きていくために必要なものである基本的な欲求のことで、食欲や睡眠欲などがここに含まれる。

2段階目にあるのは「安全欲求」で、危険を回避して安全に暮らしたいという欲求のことだ。

雨風を防ぐ家を求める気持ちや健康的な生活を求める気持ちなどがここに含まれている。

安全欲求の次に求めるのは「社会的欲求」だ。

集団に所属したい・仲間が欲しいなどの欲求はここに含まれる。

この欲求が満たされないと、人は孤独感や社会的な不安を抱えることになる。

ここまでの段階は外的な充足感を得たいという欲求からくるものであると言える。



そして次に来るのが「尊厳欲求(承認欲求)」だ。

他者から認められたい・尊敬されたいという気持ちのことで、ここからは内的な充足感を得たいという欲求からくるものであると言える。

最後に来るのは「自己実現欲求」。

自分の能力を引き出し、創造的な活動がしたいという欲求のことだ。


外的な充足感を求める欲求は低次の欲求、内的な充足感を求める欲求は高次の欲求と呼ばれる。



うつ状態の人間に必要なもの

うつ状態の人間が感じるものは絶望の他にももう一つある。

それは飢えだ。

精神的な飢餓感だ。

やる気や気力といったものを入れる器が皿からざるになってしまったかの如く、生きる意志や正的なエネルギーが抜け落ちていく中で、僕は精神的に飢えることが存在するということを知った。

そして、そういう状態に陥ってしまったときに必要なのは、自分で自分のことを肯定することが出来る程度の努力と、誰かから自分を認めてもらうこと(感謝される・褒められるなど)だ。

自分を救えるのは自分だけだ。

しかし、他人の力を借りることでより早く精神的などん底から抜け出せるのは間違いない。


それでも再起を誓い、新たな始めの一歩を踏み出すのは自分の意思以外にはありえない。

凍えた心に火を灯してくれる誰かを待ち続けるのではなく、自分の意思で火を灯そう。

全てはそこから始まるのだから。


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うつ状態を自力で抜け出すために必要なこと [空想・哲学・思想]

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長い人生を生きていく中で、うつ状態になることは決して珍しいことではなくなってきている。

寿命の長期化が進み、それに比例するように心の健康を損なう人々が増え、ストレス社会と呼ばれる現代。

人生をより良いものに、実りあるものするためには体の健康だけではなく、心の健康を保ち続ける必要があると言える。

そのためにも、うつ状態を自力で抜け出すための方法を知っておいて損はないだろう。


うつ病の症状や関連するデータ

うつ病とは、気分障害の一種であり、抑うつ気分、意欲・興味・精神活動の低下、焦燥(しょうそう)、食欲低下、不眠、持続する悲しみ・不安などを特徴とした精神障害である。(ウィキペディア参照)

日本の精神疾患の患者の割合の中で、うつ病患者が一番多い。(厚生労働省の精神疾患のデータH23年参照)

日本のうつ病患者は15年前と比べると2倍以上増えている。(厚生労働省の精神疾患のデータ参照)

内閣府が作成した自殺統計の分析によると、日本の自殺者の死因一位は健康問題であり、その健康問題の中ではうつ病により自殺した者が一番多い。

つまり、日本の自殺者の多くはうつ病が原因で自殺していると言える。



うつ病患者の精神状態

うつ病の症状の重さによっても多少変わるが、

・日常的に死にたいと思うようになる

・自分は価値がない存在だと思うようになる

・これから先の人生に希望を見いだせなくなる

・やる気や気力が驚くほど湧かない

・自分の存在が周囲にとっても迷惑なものであると考え始める

他にも食欲が湧かなくなるなど、肉体的にも悪い影響が出始める。



うつ状態を抜け出すために必要なこと

うつ状態を自力で抜け出すために必要なのは、

・成功体験を重ね続けること(小目標をクリアし続ける)

・自分なりにがんばれたときは自分を褒めるあるいは認める

・弱音を口に出さないようにすること

・何もしない時間を作らないようにすること

・少しでもいいから食事を取り続けること

最低でもこの5つのことが必要になる。


成功体験重ねるというのは、毎日家事の手伝いをするでもいいし、毎日1冊本を読むでもいいし、毎日30分運動をするでもいいから、簡単なことでいいから自分で決めた目標を毎日達成し続けるということだ。

自分で決めた目標を毎日達成することで、少しづつではあるが自信が生まれる。

自信が生まれることにより、何もできないダメな自分から進化することができ、少しずつ自分なりに自分の努力を褒めたり認めたりできるようになる。


弱音を口に出さないようにするというのも意外と重要なことだ。

言葉には力がある。

偉大な業績を持つ人の素晴らしい演説を聞けば鳥肌が立ち、心が揺さぶられる。

友人の経験した話を聞けば、共感したり、つまらないと思ったりする。

他人の言葉に影響力という名の力があるのならば、自分の言葉にもあって当たり前だ。

とにかくネガティブな発言はしないように気をつけること。


うつ状態にあるという自覚があるならば、何もしない時間というのは作ってはいけない。

精神的に落ち込んでいる人間が何もしない時間を作ると、悪い考えばかりが浮かんできて余計に落ち込むだけだ。

何も考えない瞑想をするような時間ならばいいが、悪い考えばかりが浮かんでくるような何もしない時間は作らないようにしたほうがいい。


うつ状態の人間に共通するのは自分に自信がないということ、自分は必要のない存在であるという強い思い込みだ。

その状態を抜け出すには、自分に出来ることを少しづつ増やしていき、自信をつけることが重要になる。

元のそれなりに自信があった状況の自分に、ほんの少しでもいいから近づいていくことが大切だ。



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死ねば楽になる保証なんてどこにもない [空想・哲学・思想]


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自殺したいと考える人のほとんどは今の苦しい状況から脱したいために死を選ぼうとしている。

しかし、ちょっと落ち着いて考えてみてほしい。

仮に上手く自殺することができたとしても、“死んだ先が今よりも楽な場所である保証なんてどこにもない”ということを理解しているだろうか。


死後の世界というものについては様々な説が唱えられているものの、未だに明確な答えというものは示されていない。

そもそも存在するかどうかも定かではないが、ここでは存在するものとして話を進めていこうと思う。


天国と地獄の存在

まず、死後の世界と聞いて多くの人が思い浮かべるのは天国と地獄だろう。

簡単に言えば生前に良い行いをした者は天国へ行き、悪い行いをした者は地獄に行くという話だ。

天国とは穏やかな楽園、人々が求める理想郷だ。

地獄とは罪を償うまで様々な苦痛を味わい続ける場所だ。

もしこれら2つの場所があったとして、自殺した人間と寿命で死んだ人間ではどちらに送り込まれる可能性が高いのだろうか。

僕は自殺した人間の方が地獄に送り込まれる可能性が高いと思う。

自殺というのは基本的に寿命で死ぬよりも大勢の人間に迷惑をかけるものだからだ。



自殺は何故大勢の人間に迷惑をかけるのか

自殺する人の多くはうつ病の状態であることが多く、場所は自宅、手段は首吊りであることが多い。(ウィキペディア参照)

その状況から死体が処理されて墓に埋葬されるまでの順番を追っていけば、死体というものがどれだけの人間に迷惑をかけるのかが理解してもらえると思う。


知っている方もいるかもしれないが、首吊り自殺を行った死体というのは糞尿が垂れ流しになることが多く、とても汚い。

その上ひとり暮らしの人間が自殺した場合は発見が遅れることも珍しくなく、虫が群がっていたり、腐敗が進行していて酷い悪臭が漂っていることもあるだろう。

もし死体に慣れていない一般人がそんな死体の第一発見者になってしまったら、かなりの精神的ダメージを受けるのは間違いない。

僕だったら1ヶ月くらいは悪夢にうなされたり、食事が喉を通らなくなったりするだろう。


次に迷惑をかけるのは家族と警察、それと病院関係者だろうか。

親兄弟は葬式という面倒な行事の手続きをしなければならない。

警察は公務員なので動くだけで税金がかる。

病院関係者は見たくもない死体を検分しなければいけなくなる。

他にも不動産屋や家主にも迷惑がかかるだろうし、近隣の住人にとっても迷惑な話だろう。

仕事をしていれば仕事先に、学校に行っていれば学校にも迷惑がかかる。


もし飛び込み自殺なんてしたら、それこそ最悪だ。

万単位の人間に迷惑をかけることになるだろうし、残された家族には恐ろしい額の賠償金が請求されることになる。


自殺というのは、大勢の人間に迷惑をかけるものだということと、非常にリスクのあるものであるということを覚えていてほしい。

しかも死んだからといって、今よりも楽になれる保証もない。

もし仮に死後の世界があったとしても、普通に寿命で死ぬよりも悪い場所に送られる可能性の方が高い。



死というのは頼まなくても勝手にやってきてくれるものだ。

どうせ死ぬなら少しでも人に良い影響を与えてから死のう。

絶望して自殺するよりも、最後まで生き抜いて善行を重ねたほうが結果的にはあなたが救われる可能性は高いのだから。




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人は何故生きるのかという話とか [空想・哲学・思想]

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大抵の人は、何故生きるのかという疑問を一度は抱いたことがあると思う。

僕自身自分の生きる理由を見失い、一時期は本気で死にたいと思いながら苦しい日々を送ったこともある。

その苦い記憶や現在の多少まともな状態の日々から出した答え、人の生きる理由は「自分以外の誰かに良い影響を与えるためである」ということと、僕自身の生きる理由は自分自身を救うことである。


人は常に誰かが誰かに影響を及ぼしながら生きている。

あなたが友人と世間話で盛り上がれば、それはあなたの友人に対して良い影響を与えていると言える。

しかし、もしかしたら少し離れた席に座っている誰かに不快な思いをさせ、悪い影響を与えているかもしれない。

一つ一つの些細な行動が誰かに良い影響を与え、時には悪い影響を与えている。


何故人が生きる理由は自分以外の誰かに良い影響を与えることなのか

大抵の人間は自分の大切な人や友人、家族や恩師などには幸せになって欲しいと思うし、可能であれば幸せにしてあげたいと思うだろう。

そのためには少しでも良い影響を及ぼしたい、要は幸せになるための手助けをしてあげたいと考えるはずだ。

例えば何か悩み事があれば相談にのる。

手伝って欲しいと言われれば手を貸す。

本当にちょっとしたことでも、それは良い影響を及ぼしていると言えるし、幸せになるための手伝いをしているとも言える。

そしてそれらは、生きていなければできないことだ。


何故僕自身の生きる理由が自分自身を救うことなのか

僕自身の今の生きる理由が自分を救うことになったのは、簡単に言えば「自分以外に自分を救うことのできる存在はいない」ということに気づいたから。

うつ病のような状態になり、食事も食べたり食べなかったりして一日の半分以上寝ていて生きる気力が湧かない状態を乗り越え、生きることの意味や死にたいという気持ちに向き合い続けて気づいた。

自分自身が生き続け、自分が周囲の人に良い影響を与え続けるには自分自身もある程度良い状態でなければならない。

言い方を変えるならば、友人や家族のことを心配し、何か困ったことがあれば手助けが出来る程度には余裕がなければならない。

しかしだ、

自分が精神的に困ったとき、苦しんでいるときに必ずしも誰かが助けてくれるわけではない。

僕らが生きている場所は厳しいことで有名な現実だ。

物語の世界のような都合のいいヒーローやヒロインは晩年不足気味で肝心な時に現れない。

そこでどうするか、

いないなら自分でどうにかすればいい。

要は自分が自分を救えば万事解決なのだ。

特に精神的に落ち込んでいる状況や死にたいという思いは一生つきまとうものだ。

精神科医なんかに言っても適当に話を聞き流されて、ろくに効果のないお薬を出されるだけ。

だったら自分で何とかするしかない。

自分で自分を救うしかない。


死にたいと思いながら生きている自分よりは、生きることを楽しんでいる自分の方が周りに良い影響を与えられるのは間違いない。

死にたいと思うとき、どうすれば自分を救えるかを考えてみてはどうだろうか。

そうして這い上がることができればきっと、自分の周囲の人が苦しんでいる時に力になれるはずだから。




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